1954年(昭和29年)移りゆく校舎

更新日:2021年08月31日

昭和29年の資料より

「門標」

それはそこに住む人間の象徴である。そこに住む人の生活の目安にまでなるであろう。ある建物が門標とともに旧い主人を送り、新しい主人を迎える。その名は幾度か変わるけれでも、そこに育てられはぐくまれた人達に永遠の感懐をとどめさせるであろう。

明治44年、此の地に居を定め10月14日落成以来40余年、唯だまって新しい人を迎え、送られていった人々の数は3500有余人、高い香が降る息の間からこの門をくぐる子等に微笑みかけてきた。

新しい校舎と新しい教育にやがてはかけかえられる日も近いけれども自分の仕事を充分果たした安堵さに今日も旧校舎正門にかかっている。

「仰ぎ見る校舎」

子どもたちにとってはそれ程なつかしく思い浮かばないかもしれない。しかし、この校舎を出て年毎に想い出をそぞろもよほすころ、通勤のゆききに農良での一時、仰ぎ見るこの建物からほのぼのと昔の情景がまのあたりに浮かび、これまでに成人した自分を省みて一人深い感慨にふけるであろう。

数々の想い出と高い香りを放ちつつ、ただ、だまって子どもをやさしくはぐくんできた。そして、気高い校舎の仰観である。

「南海鶴原駅より新旧校舎を望む」

山麓にひろびろとひろげる野原、海近く、その中間に伸びる平和な町と中央にどっしりとその姿を現している。

その南東、新しい校舎をも一望におさめるこの風光ははれた空にふさわしい。

「校舎 本館」

敷地面積190坪、二階建本館は床面積320坪、一階講堂及び教室2、階上大教室及付属教室3、遠く校下全域から望まれ、その古風な銅屋根とともに本校のシンボルであった。

新しい時代とともに取り壊される時は、その長い生命の中で充分役割を果たしてきた。この建物はあちこちに雨もりを見るまでになっていたけれども、古い人々の心の中に温かい香りを残しつつ、その生命を完うして消えていったのである。

「本館北西隅」

こんなところもあったのかと思い出す 石碑上

「表通り(1)」

旧の物語をとどめる紀州街道にそって石垣が長くのびている。

「通用門より東校舎」

プラタナスがきれいな葉をつける頃、さわやかな風に乗って子どもたちの無心な歌声が流れてくる。

「だんだら坂」

正面校門の西側、古い歴史を誇る紀州街道はなだらかな坂となってゆるやかにまわっている。

増築によって整備された理科実験室は、当時としては新しいその設備を誇っていた。

「表通(2)」

石垣といぶきに囲まれた校舎には、たえず春をつくる息づかいが感じられる。年ふる毎に伸びる松は今もなお伸び続けている。

「旧本館裏通り」

ここに見える校舎は、すべて明治44年に落成したものである。

「園芸園」

昭和25年度より大阪府理科研究指定校となる。本校の理科教材園の一部、ここには主として動物、にわとり、はと、七面鳥、あひる、山羊等が飼育されている。

理科室前には百葉箱等気象観測用地及びおしろい等、特殊な花壇がある。

 

「紀州街道」

“荘厳”といった表現が最もぴったりするのではないだろうか。長い歴史を学校とともに生きてきた老松が何事も知り尽くしているのであろうか。

「児童通用門」

本館北側にあるこの児童通用門は、毎日子どもたちを迎えては送り、成長していくこどもたちを見守ってきたのである。雨の日、風の日、登校の際、こどもたちはこの門標の所までどうして来たであろう。そして又、新入生の下校時に配気に見送ったことであろう。そして又、運動会の日など絶えず微笑を送っていたことであろう。

この校舎に、この門をくぐりこの門を出て行った卒業生に代わって、“ご苦労さまでした”とねぎらいの言葉を述べておき、末永くその面影をとどめたいと思う。

「通用門内花壇」

あつい日、こどもたちに木陰を与えてきた一隅。

「紀州街道(2)」

人代り、時流れて、人の世はさまざまに速く変われども、時代の足跡を無数にふみ残して今もなお“道”は果てしなく続いている。

人の子よ!くぼみあり、坂あり、雨ふりてぬかるみに足をとられるとも、希望の町がこの“道”の彼方に君を待っている。

「大運動場」

“才あり機智たけたる人有りとも、その病身なりせば幸せの園遙かなり”

三方校舎に囲まれた1292坪の大運動場は、北中通のこどもたちを日々健やかに遊ばせてくれたのである。雨の日は悲しげに往き交う傘の子を見守り続けてきた。

「旧正面玄関」

其の昔、紀州街道に沿って当地に有った神域は、北中通村の稲荷社として春秋の祭礼はもとより、諸事進行のシンボルとして村人たちの心の安息を守り、五穀農作を年毎に祝ってきたものである。

今、其の社は東方500米の地に移りし後、明治44年に建設された本校の歴史をそのまま伝えてきたのである。

初、職員室として職員5人を守って後幾変化、現在まで健康クラブとしてその使命を子どもたちのためにつつがなく果たした。

年とともに伸びてきた本校では、すでに行程の一隅にその姿をとどめるに過ぎなくなった今も、神殿風の屋根とともに永く後の世までも申し伝えたい。

「旧正面玄関(健康クラブ)」

建築以来50年、今は人生を終えた人のようにやつれた面影をとどめるこの玄関も故き人々にとっては、なつかしさの一入であろう。

人の世は移り、古きものは新しきものに代えられても、その果たした成果は必ず次代に受け継がれるであろう。

「廊下 旧本館前」

次代の進歩は容赦なく我々の生活様式を変えさせる。石だたみ(上)から両廊下(下)へ、更に片面(左下)へとその教室の模様もそれに沿って合理化され、明るくなっているのが目につく。

「本館二階 階段」

子どもたちは一日最低六往復、年間30000段を上下する急な階段である。二階を受け持つ先生たちの悲鳴を耳にするにつけ、ひまにあかせて計算してみた次第。

「交通地獄」

行動の北階段裏から拡張教室に通ずる三又路は、校内交通の際難所、年中薄暗いここは二階階段と四つの通路の交差点。

登校、下校時はお急ぎの用の方は通れない。“御用とお急ぎでない方はお通りください?”

「教室 正面」

教室が現在では18。約900人の児童が楽しく学習している。1クラスが40~55人、多い方である。

「教室 後方」

子どもたちの夢をはぐくみ、力強く成長する機舎と、指導を与えられる教室は、子どもと先生とで作る社会の縮図である。

「講堂」

間口9間、奥行13間、121坪の講堂は建設当時としては、千人を収容する大講堂であったろう。しかし、此の講堂の果たした役割は大きい。子どもたちの集会、学芸会、入学式、卒業式と、想い出の多くはこの講堂で作り出されている。

又、校区の人々に有用に活用された数も多く、その効果も実に多いことであろう。雨もり、床はみしみし鳴る様子も、その苦労のあとが聞こえるようで尊い。

人々のために次の客を待つ整頓された椅子の姿が目に染みる。

「旧職員室」

教育が最大の効果を挙げるためには、やはり良い環境を作らねばならないと同時に、やはり教育を動かせる人、先生の事を忘れてはならない。

良い設備、整った資料、伸びやかな研究所と、楽しく自己の力を伸ばせる職場を与えねばならない。

その意味から、私は先ず、先生たちに能率的な職員室を提唱してきた。新しい校舎ではきっと実現するであろう。

「仮住居」

移築移転にともない、職員室を教室に掲げた時の仮住居である。

不便の中に快活な表情を誇る本校職員室風景、寸描。

「給食場」

昭和26年完成した給食場内部。毎日800人の食事を作ってきたが、約二年間でその用を終え、現在取除けられている。

「お茶はここで 使丁室」

勤続20余年のおばあさんがここの主。

往き来る職員生徒に親しまれてきたこの人は、今では学校にとってなくてはならぬ存在である。

「防火用具」

平素は目を向けることもないこんな所にも、重要な意味がひそんでいる。

旧校舎の一隅、災害に備えて万端の用意がなされていたのである。

「洗場」

朝、昼、放課後と、常に子どもたちにとって欠くことのできない大きな教場であり教具である。

子どもたちが水の尊さを知り、これからの生活に必要な体験を自ら学びとるここは、言葉ではどうすることもできない指導力を発揮する。

「西南方のながめ」

明治6年、鶴原、下瓦屋、浦田、沢の四ケ村を含め、発足以来、80年、泉佐野市の一部として今日まで本校をとりまく環境は、その校区と産業、文化の面に変換をとげ、今は昔の語り草。

道路、鉄道の発達とともに、今では大阪市内へ30余分、其の昔、小栗判官が熊野参詣、行列にその名がある小栗街道も、車の砂けむり。ただ、ここに見る漁村風景に昔日の面影を偲ぶのも感慨一入であろう。

「北方のながめ」

眼を北方に転ずると、これは又、身近にひしひしと近代の息吹を感ずる出あろう。林立する煙突棟を連ねる工場は躍動する工場地の面目を躍如と示し、力強さに打たれるであろう。

ここ振興工業都市泉佐野はタオル織物の生産地、その生産高は香川県に及ばないが、工場数240余、全国で第一位、南東に拡がる平地はひろびろと山すそまでつづき、泉州たまねぎの本場、又古来漁村としても干しいわしの名産を持ち、農・工・漁に特異な強みと伝統を誇っている。

人々は勤勉と活力を持ち、常にその旺盛な生活力に支えられて、我国でもきわめて恵まれた環境となっている。旧きものの中に新しいものを育て、徐々に発展するその確実な思潮の中に伸びやかに育つ子どもたちの為に、こよなき祝福の意を表しておこう。

「新築移転へ」

旧き歴史を内に秘め、ついに取り除かれていく校舎。思い出ははるか彼方に、やがて新しい息吹をどこかで始めるであろう。

解きほぐす槌音は、ねぎらいのメロディーである。世のあわれは、ここに住み、ここに育った人々の胸に一入深く哀愁の音をかなでることであろう。

「さようなら、旧校舎」

旧校舎二階より建築中の新校舎を望む。

40年間、5000人余の人々をはぐくみ育ててきた校舎を去るに当たって、数限りない言葉を送ってもつきることはない。尺一言、この魂は決して消えても滅びもしない。

その語らざる校舎の呼び声はきっと次に受け継がれ、新しい校舎で次代の子どもたちによってかなえられることであろう。

さようなら!子どもの成長の姿を見、安らかな眠りにつく年老いた母のように。

「新しい槌音 校地買い入れ」

生まれ出るものの苦痛と喜び・・・

前校地の東方約100米の用地4157坪、買い入れ。

手前さく外は国道26号線、中央大木は当地一部信仰の対象。 校舎の西南隅に移転で一応けり。

通称“がぶれ”の大木は切り倒した。

「建築中の四教室」(南端)

「稲の穂とともに」

完成した四教室」

昭和27年1月8日地鎮祭 115.5坪

工費250万円で4月末完成。

草茂る校地の中にぽつんと出来上がった。

新しい生命、さてこれからだ。

「第二期工事 基礎工事」

「地鎮祭」

「上棟式」

「息吹き」

「完成近し」

「給食場」

「第二期工事を終わりて」

教育はすべて将来への希望と可能性への努力である。人間の永遠の理想に向かって前進を試みねばならない。就着と安易さの中で安住の夢をむさぼってはいけないのである。今日の感傷にのみとじこもっていられない。

ここに古いものより新しきものに衣がえを着々進めている北中小学校、この温かい教育の場に長い時の流れの1ページを子どもとともに暮らしてきた私にとって、こよない愛着を感じつつ、このアルバムを残したいと考えた。

古い人々の想い出を呼び起こし、新しい人に語り草を伝えることが出来たらと念じつつ、第三期工事の完成をまたずバトンをゆずる事に一抹の寂しさを感じるとともにお許しを乞う。

 

「第三期工事」

 

「第四期工事」

三つの棟

屋根に瓦が並び、着々工事は進む。今に明るい校舎の竣工が子どもたちの笑顔のひとみにうつることだろう。

「木材が交錯して」

「本館の工事が進む」

「北校舎屋上から本館を望む」

「北校舎の息吹き 槌の音」

「泥の音」

そして、瓦をたたく槌の音

「早春の陽光に輝くいらか」

「第四期工事中の全校舎」

国道26号線より望む

「北校舎の廊下」

教室の各入口の廊下にそれぞれ土間をもつ工夫された廊下。

仕上げ工事に竣工の夢をえがきながら、瞳を輝かせる児童。

「竣工近し」

 

「落成に輝く新校舎全景」

「完成した校舎の一部」

「豪壮な邸宅を偲ばせる玄関」 国道26号線に隣した新校地4157坪に、80年の歴史をもつ北中小学校が移転改築された。新しい時代の息吹きとともに、次代の児童を校舎のその明るく清らかな姿のように育み続けることであろう。

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