沿革史

更新日:2021年08月31日

 

明治時代

<明治以前> ◇日根野村にも寺子屋があり明治5年の学制における学校体制のもととなり、習字・読書・算術を教えた。 <明治5年 8月> ◇大阪府堺県泉の国22区郷学校(日根野郷学)として開校(野々地蔵に分校)される。

◇日根野村(西出)楞巌寺の堂字を借受け教場とする。

◇郷学区域として日根野村、大木村、土丸村、俵屋新田、佐野村、嘉祥寺村、吉見村、樫井村、岡本村、安松村、長滝村、上之郷村の12か村。 ※先生2人ぐらい、校舎は神社仏閣をかりうけたものが80パーセントぐらいだというのが当時の学校の全国的な傾向でした。 <明治6年 5月> ◇泉州二六番小学校と改称する。

◇堺県の和泉の国になり、学区制を設け日根野は第22区に属し、区に1校の小学校となる。 <明治7年 7月> ◇第三大区大四小区日根野小学校と改称する。

◇上等、下等の二科を設置する。 <明治12年 8月> ◇日根野村、目源六氏の長家を教場として借り受け、ここに移る。 <明治14年 5月> ◇校舎を新築し之れに移る。

◇校区は日根野だけであった。 <明治15年 2月> ◇初等・中等・高等の三科を併置する。 <明治19年 4月> ◇小学校の段階を尋常・高等の二段階に改め、尋常小学四年高等小学四年とし、尋常小学四年間の就学を義務とした。 <明治20年 4月> ◇尋常小学科のみの学校となり、日根野尋常小学校と称する。 <明治21年 4月> ◇各小学校に簡易科を併置し、校名を日根野簡易小学校と改称する。 <明治23年 6月> ◇小学校令改正に伴い、各小学校の簡易科を廃止する。

◇各小学校に教育勅語下付、教育方針が一定する。 <明治24年 11月> ◇教育に関する勅語騰本を拝受する。 ※学校紋章はいつ頃できたかはっきり分からないが、いわれとして、大井関神社のうば桜の中に日根野の頭文字の日を桜の中に入れ、日根野のシンボルとしてつくったものである。 <明治25年 10月> ◇校舎改修のため、日根野村丹生神社(野々宮)拝殿を借り受けここに移る。 ※当時就学児童は大変少なく、丹生神社(野々宮)へ通学するのは何だかこわかった。一方楞巌寺にも分かれて学習をした。

※二年生と新入一年生と同じ教室で(複式)勉強を習ったものだったそうで、三年、四年もこれまた同じ教室で学習した。

※高等小学校へ進学できない者は尋常小学四年修了後、補修科へ一年継続学習した。

※高等小学校は泉佐野で(現在、第一小学校)試験制度があり、パスしてはじめて第一小学校高等科へ入学した。 <明治26年 1月> ◇日根野小学校校舎改修完了につき丹生神社より移転する。 <明治26年 4月> ◇俵屋新田は日根野村に編入し、日根野村小学校区とする。

◇日根野尋常小学校と称する。(四年制)

◇各小学校に天皇・皇后両陛下御真影を下付せらる。 ※学校迄の距離が遠いので、野々地蔵は加茂栄三良氏(今の屋敷は当時分校跡)宅地付近の分校へ、俵屋地区は一里山(旧飛行場跡)へ通学した。

※この当時の勉強は、読み、書き、そろばんで、書くことは殆ど習字であり厳しく教えてもらったものだ。 <明治33年 4月> ◇校舎新築につき日根野村楞巌寺堂字を仮校舎に借り受け之れに移る。

◇高等小学校を併置し、大阪府泉南郡日根野小学校と称する。

◇高等小学校の通学区域は本村の外に大土村、上之郷村、長滝村、新家村の四か村を増す。 ※算術(今の算数)の勉強の中で、数学も算用数字の外に羅馬数字も覚えたものでした。

<明治33年 8月> ◇小学校令の改正。 <明治34年 5月> ◇新築校舎落成、これに伴い当日を本校の創立記念日とする ※落成式には大阪府知事が参列し、知事の参列は当時としてはめずらしく、静かな村がにぎわった。

※この頃の尋常科は四年制で、高等科も四年制となっていた。尋常科から高等科への進学率は60パーセント程度で、尋常、高等科共に進級試験がありパスしないと進級できず落第者も出たものである。女子の中退者が多く卒業生も男子25名女子がわずか1名というさびしい年もあった。

※先生も代用教員が多く、各学年、クラス1名はあった。

※高等科の教科内容として英語(ナショナルリーダー)、漢文、近古史談などは思い出深かった。

※明治35年尋常高等小学校の高等科第一回卒業生は8人か9人であった。 <明治41年 11月> ◇戍申書謄本拝受する。 ※貨へい価値も違うけれども、当時のサラリーは校長22円、教頭20円、訓導(今の教諭)18円だった。

大正時代

<大正2年 4月> ◇校舎(一教室)建築(建坪18坪3合)。 ※学用品を入れる物も風呂敷を使ったり鞄を使ったりまちまちであったが、この頃から通学鞄がはやってきた。

※やがて卒業間近になると、卒業記念として書と絵を学校に残すのが例となった。 <大正4年 10月> ◇天皇陛下御真影拝受する。 ※成績の付け方は十点法といって、最低は四ぐらい、五点ー下 七・八点ー中 九・十点ー上位、成績が優秀であると郡長より品行方正、学業優等賞を受け、硯箱(竹に雀)帳面をもらったものである。 <大正7年 5月> ◇日根野尋常高等小学校に実業補習学校を併置する。

<大正8年 7月> ◇校舎増築する。 ※悪いことをして先生を困らせる、けんか、石の投げあいなど、部落単位の争いが多かった。行儀の悪いものはしかられるのはもちろん、男1人が女の中へ入れられたものであった。また、廊下の板にろうをぬり先生を困らせたこともあった。 <大正10年 3月> ◇日根野女子実業補習学校を設置する。 ※文房具として石ばん、石ぼくの学用品もまたなつかしい。

※当時は給食はなく、お昼の食事は近い人は食べに帰り、遠い人は弁当持ちであった。

※万年筆は当時の筆記用具の中では最高級品であった。 <大正12年 12月> ◇教育に関する沙汰騰本拝受する。 ※当時は服装も和服から洋服化したころで、洋服を着るのが大変恥ずかしいものであった。

※高等科へ行かせてもらって当時の袴をはかせてもらうのが何よりのプライドであった。もちろん尋常科では袴がなかった。

※遠足は高等科は根来寺へ、低学年は葛城山へ、それも下駄ばきぞうりばきでまちまちであった。

※大きな頭に小さな帽子をかぶり、いつも二つボタンに懐中時計をポケットに入れていた名物先生がなつかしい。

昭和時代

<昭和3年 3月> ◇講堂建築落成式をあげる。 ※教科の家庭科は裁縫といった。四つ身、ひとえ等、和裁の技能は高いものであった。 <昭和3年 10月> ◇天皇陛下皇后陛下御真影拝受する。 <昭和7年 2月> ◇教育者に賜りたる勅語騰本拝受する。 ※旧講堂は大阪市立中大江小学校の講堂を二万円で買い受けた。出張所建物もその時買い受けて移転させたものである。

<昭和9年 9月> ◇第一室戸台風により小学校講堂が倒壊に近い破損を受ける。 <昭和11年 3月> ◇奉安殿落成する。 ※山田由一氏(西上)より奉安殿を寄贈される。 <昭和14年 8月> ◇青少年学徒に下し賜る勅語騰本拝受する。 ※女子ばかりけいこに励んだなぎなた訓練、5・6年はなぎなたの試合もあり、つらいうちにも結構楽しさがあった。 <昭和16年 4月> ◇国民学校令施行につき、校名を大阪府泉南郡日根野国民学校と改称する。 ※当時は大変厳しいしつけだった。

※太平洋戦争下にあり、あらゆる物資が不足したにもかかわらず、「欲しがりません勝つまでは」と歯を食いしばりがんばったものである。

※高等科の生徒は動員として松根油の採取、工場への勤労奉仕に出かけた。 <昭和21年 1月> ◇御真影奉還する。(御六葉) ※卒業生の戦死者は、終戦までに145名に達した。 <昭和21年 6月> ◇御真影奉安殿の撤去をする。 ※終戦後、米国教育使節団来訪により、あらゆる角度からの調査、研究がなされ、わが国の政府に学制改革を迫った。

<昭和22年 3月> ◇教育基本法が公布される。 ※物資が不足して、一年生のときの教科書はわら半紙ずりだった。 <昭和22年 4月> ◇日根野村立小学校と称する ※六・三制の義務教育が実施された。

※民主教育がさけばれ、教育の改革が少しずつ進みだした。 <昭和23年 4月> ◇P・T・Aが発足する。 ※先生がやさしくなった・・・・・当時の生徒。 <昭和24年 9月> ◇校舎改築の議、村会を通過する。 ※民主教育にとまどいながらも、はりきってやった・・・・・当時の先生。 <昭和25年 2月> ◇新校舎建築に着工する。 ※明治34年の校舎を撤去し、校舎の様子は一変した。 <昭和25年 5月> ◇日根野小学校にようち園を併設する。

◇日根野小学校講堂を借り受け小学校区内の幼児(次年度入学児)を収容する。(延長は小学校長が兼任する) <昭和25年 8月> ◇新校舎落成式をする。 ※木造二階建の校舎がこのとき建設された。 <昭和27年 4月> ◇特別学級編成する。 <昭和27年 5月> ◇幼稚園新園舎に移転する。 <昭和28年 2月> ◇校歌が生まれた。 ※昭和26年ごろ校歌募集のチラシがくばられ20名が応募した。現在の校歌はこうしてつくられた。 <昭和29年 4月> ◇泉佐野市立日根野小学校と称する。 <昭和32年 3月> ◇第二号校舎(木造四教室)増築落成する。 <昭和33年 8月> ◇日根野小学校講堂兼公民館の建設完成寄付を受ける。 ※この公民館は日根野地区の文化センターとして阪本栄一氏(阪本紡績社長)より寄贈され、多方面にわたって利用されていた。即ち日根野小学校の講堂として児童の学習活動の場として利用されている他に、中学校、長生会、婦人会、日根野農協、青年会等の地元民の諸行事や集会の会場として利用されていきた。 <昭和37年 7月> ◇給食室着工する。 <昭和37年 10月> ◇給食室落成する。 ※親は弁当をもたさなくてもよくなって楽になり、子どもたちは給食を楽しみに学校へ行くようになった。 <昭和38年 12月> ◇保健室落成する。 <昭和45年 11月> ◇第三号校舎(鉄筋六教室)増築完成する。 ※昭和46年1月20日、増築校舎落成記念行事として祝賀式児童作品の展覧会、講演などが行われた。

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